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(C) TEGAKI YUZEN - NAKAKO
 
 
 
創業への想い美に魅かれて友禅染との出会い想いの炎
ただ一つを求めてアドレスは渋谷日本橋高島屋展面白味創意工夫天の虫伝統文化
   
 
 
手描き友禅がどれだけ熊本で認知され、必要とされるだろうか、
そんな不安を抱えて、東京友禅学院を卒業と同時に帰郷しました。
 
約18年ぶりの熊本生活。
帰郷の理由は諸々ありますが、より友禅に向かう時間を確保したいと思い決心しました。
   
別の仕事をしながら地元社長との会話で、「何故友禅を仕事にしないのか?」と、
そんな声を多く頂きましたが仕事となると簡単に決心はできませんでした。
ある社長からお声を掛けて頂き、友禅のご注文を受けさせて戴く機会を得ました。
 
「そうだった…。仕事を創る、自分で想像して形にしたらいい…。」
 
別に友禅染に限った話しではありません。
銀行にお勤めしていた時も日々のルーティンワークから、
この仕事をより極めるための知識習得や業務改善などを発見して実践、
それを発表する場もありました。
そのような経験を踏まえ、友禅染でも技術を活かした何かがあるはず、
これまで培ったもので、想像して創造することを友禅染で…。
 
初めての友禅染の仕事は正絹での手拭い制作でした。
社長のお母様が踊りの師匠をされており、その発表会で顔を隠すのに絹の手拭いを使用して、
発表会後は記念品として飾って楽しむことを希望してのご注文でした。
 
しかし今後、友禅を生業としていくとなれば
着物や帯など和装だけの世界で友禅染が仕事になるのか?と自問自答を繰り返しました。
 
そんな中、限界を作っているのは自分の脳だけで、色んなかたからさまざまな発想の
ヒントを得ることができ、限界を砕いてみる勇気が湧き、可能性を拡げてみる愉しみが生まれました。
 
   
 
 
子供の頃は、ぬり絵を愉しんでおりました。
 
高校進学も地元県立高校の美術科を希望しましたが、
経済的事情で親から反対を受け、のんでしまいました。
 
美術を志すには画材などが必要であるため、美術大学まで望まれたら困るという親の
先々への懸念があったようです。
元々お金のかかることが私の好みだったようで、小学生の時にフィギュアスケートを
習いたい、フィギュアスケートにはクラッシックバレエの要素も必要だと子供ながらに想像し、
二つを同時に習いたいと訴えましたが「ウチにはそんな金はない。」と一言で玉砕。
私もあっさり頷きました。
   
大学は京都の、ある女子大を希望しました。
今となっては「大学」でなく、「京都の暮らし」に憧れた大学受験でしたが、
こんな不純な動機では失敗して当然でした。
もし、京都に暮らし、京友禅に出会っていたら、地元に帰っていなかったかもしれません。
   
結婚して関東に住んでいた頃、長野にある「豪商の館 信州須坂田中本家」を
訪れたことがあります。
そこで、染織という領域にやっと触れた気がします。
大事に保管され衣桁に飾られた意匠を拝見し、
佳いものを大事に永く愛することに、日本人の心を垣間見たようでした。
  
どれだけ昔の人の心は豊かであったことか、
ガツンと頭を殴られた一瞬でもあり、憧れを抱きました。
  
その豪商の館では婚礼衣装、調度品だけでなく、陶磁器、漆器、昔の玩具や
庭園も見事で、豪商だから、でなく、「心」があるからこそ豪商になり得たのではないかと
感じました。
それは庭から感じとれたものでしたが、朝顔の生垣や鷺草の鉢を観ても、モノを活か
す心と感性が随所に現われていると思えたのです。
  
昔、庶民の着物は木綿のものが多かったと思います。着尽したら子供のおむつと変わり、
最後は雑巾になり、土に帰っていました。
それはモノが単なるモノでなく、日本人の精神でもあり、
精神が形や流れとなり循環を生んでいるように思います。
質の高い着物は何代にも受け継がれていきます。
  
日本に生まれ育ち、日本の文化に触れられることに感謝せずにはいられません。
 
   
 
 

関東に住んでいた頃、リクルート発行の「ケイコとマナブ」という雑誌をパラパラと
めくりながら、「これ!!」と思ったものが東京友禅学院のページでした。
 
結婚生活の中で子供がいないまま、この先仕事はどうするか…
ということが当時の私の大きな課題でした。
 
結婚前は某信託銀行法人営業課で融資事務を経験し、仕事が面白くなってきた頃に
結婚により退職をしました。
ようやく仕事の面白さが解ってきた頃に退職とはとても勿体なく、
また収入面でも申し分なかったのでそれと同等、
またはそれ以上のものを求めようとしても希望通りにはいきません。
 
現実に、転職をしても前の収入を上回る転職にありつけるか、疑問でもありました。
その当時は仕事と言ってもどんなことに興味があるかさえ解りませんでした。
ほかの世界を知らなければイメージも湧きません。資格先行タイプの人間では
ありませんので、目的がなければ動けないのです。
腹が決まらなければ、「岩の如く」でした。
 
元夫の転勤で関東に住み、しばらくは銀行OBとして東京駅を挟んで、
夫が八重洲の ビル、私は丸の内のビルで派遣というスタイルで働きました。

通勤時間に約1時間かかるのは関東では当たり前ですが、熊本に育ち、実家から通っ
て仕事をしていた私は、この1時間の満員電車でも相当疲弊しました。
通勤時間と時給、家事労働などのバランスから不満が募り、自問自答しました。
不満を言って生活するのもつまらない、不満を快適にする改善は
ないものかと考えました。
 
体験してから何かを決めるようで、実際に体験してどう感じた結果、
どう行動するか、 行動のもとには体験から得た感覚が基材になっています。
 
時間は有限です。
どんな時間の使い方をするか、お金はどう使いたいか、
私は出来れば好きなことを仕事にしたい、出来れば家の中にいて…。
そもそも私は何がやりたいのか…。
 
そんな思いがあり、東京友禅学院で習い事として始めた友禅染は
ひっそりと将来の目的になりました。

それに…習い始めた当初は先生がたには恥ずかしくて
「友禅で仕事がしたい。」とは、とても言いだせませんでした。
 

   
 
 
既婚当時は経済的に恵まれていましたので、離婚を決意するのは容易なことではありませんでした。
また人間的にも優れた部分の多い元夫と暮らせたことは感謝以外の何もありません。
 
生活の中では多少考えの違いや性格的なズレもあるものの、大らかな性格の元夫は私に対し、
小さいことで文句を言うこともなく、短所を突くより長所を最大限に褒めてくれました。
 
それにより、自分へのチャレンジの芽が頭をもたげてきたような気がします。
 
結婚前にある苦痛から夜眠れることがなく、あっという間に体重が36キロまで落ち、
30代は体重が40キロない状態で過ごしました。
過呼吸や慢性的な偏頭痛と胃痛、異常なほどの低血圧で身体を起こしているのも
辛かった時があり、身体と心はバランスを崩していくばかりでした。
 
結婚していた時も体調が優れない日が多く身の危険を感じて、
友禅を習い始めたと同時に、テニススクールにも通い始めました。
 
「静と動」は私にとって、子供の頃から変わらないベストバランス。
 
子供の頃は外で兄の後をついてまわり、撒かれると気分を換えて家に帰り、
祖母の近くでぬり絵に没頭します。これでバランスがとれていたと思います。
 
昔を思い出し、活動的な時間と穏やかな時間、
対極にある時間を過ごせば健康的になるのではないかと思ったのでした。
 
友禅とテニス、実際にこの二つを始めるまで2年を費やしています。
何かを始める時は資金が必要ですから貯金して過ごしつつ、
想いの炎を弱火から起こしていたかもしれません。
また、その時は経済的にはとても貧しかったのですぐに始めることも
出来なかった訳でもありました。
 
熱を冷まさない状態で温め続けたことが継続する想いに繋がったのではないかと思います。
 
   
 
 
東京友禅学院は、普通科2年間、専科2年間、研究科2年間と卒業までに6年間が必要です。
私は途中元夫の転勤で関東を離れたため休学したり、離婚後学院に復帰しても仕事や
収入面の都合でなかなか思うように通うことができませんでした。
 
文部省の認可を得ていないので「学校」ではなく「学院」ですが、カリキュラムは豊富でした。
卒業するには課題をクリアしなければいけません。
また月謝や材料費なども含めると、それなりの収入も必要です。
 
離婚してすぐは銀座の画廊に約1年お世話になりました。美術大学卒業ではないのに、
よく雇って頂きました。
 
全国のデパートやギャラリーのある書店で展示会があり、
アルバイトながら出張もあり体力が要りました。
展示物の搬入、設営、搬出、倉庫仕事なども経験することで裏方の仕事が重要なことも
解りました。作家さんのお話を伺うことで勉強になりました。
 
その後、より多くの収入を得たいと思い、不動産業に転職しました。
一番の収穫はどんな仕事でも企画が大事だと思ったことです。
形にする前にどれだけイメージづくりができるか、友禅の作品を創るのにも共通しています。
 
不動産業では休日と学院の授業の日が重ならないことも生じ、
このままではいつまでも卒業できないと思い、転職をします。
収入はできるだけ落とさず、少しでも友禅に費やす時間を確保するための休みが欲しくて
銀行業に戻ります。
 
休日に朝から起き上がり都内に移動するのも辛い時があり、
住まいを都内に移したいと思っておりました。
不動産業に従事していた時に転勤で高崎に異動したため、次の転勤では渋谷区に住まいを
移すことにし、学院がある外苑前から歩いていける家を探して即決しました。
 
生活費だけでも稼ぐのが精一杯、毎日職場の往復と学院に通うだけの生活でした。
仕事だけでも疲れて家に着くと服を脱いだらそのまま朝まで…という生活が続いたものでした。
 
考えてみると、どの仕事もラクではありません。 
収入を優先すると結局は重い仕事内容になってしまうのも仕方がありませんでした。
休みの日は起き上がれないこともしょっちゅうで、学院に通うために近い場所を選ぶ、
という判断は正しかったようです。
 
いつも物事を決める時、「友禅を続けるために」目的は首尾一貫した東京生活でした。
 
   
 
 
帰郷前の6年間は東京友禅学院のある外苑前駅から1駅、歩いたら電車賃も不要という理由だけで
住まいを構えましたが、東京を離れた今でもその期間は特別に感じます。
 
その住まいは築年数の古い鉄骨造りで、建築基準法では旧耐震で大地震の時は
倒壊の恐れもありと、不動産の重要事項説明書に書かれてました…。
それでも良しと決めました。
 
東日本大震災の折は自宅に戻ったら潰れているかもしれないと不安で、
その夜は会社で過ごしたことも懐かしく思います。
被害は花瓶が割れずに倒れていたこと、観葉植物が床に落ちていたこと、
鍵をしていなかった窓が全開していた程度で済みました。
 
リノベーションされ、オール電化でホテルキーの仕様でしたが、
不慣れなうちは色んな不便さがありました。
 
朝からシャワーを浴びているといきなり水が止まる、お湯切れする…
ひと月のうちに何度もインナーキーをして、警備会社を呼ぶのに
表参道の交番まで電話を借りに行ったり…
警備会社に開錠してもらうのに、お金を払って文句は言われ…
 
都内の1ルームですから狭いのは仕方がなく、
ベッドマットに反物と並んで寝ていたこともあります。
片付けをしてない時は部屋の中を跳ばないと移動できないこともありました。
 
地デジ難民の生活も経験しました。
ワンセグで観るオリンピック、携帯握りしめて電気つけたまま寝てしまう、
親が見たら呆れて連れ戻されそうな有様でした。
 
場所は渋谷駅と表参道駅の間にあって、
利便性が良いので移動するのに困ったことはありません。
 
サントリー美術館がお気に入りで、ポケットに
最低限のお金を入れて手ぶらで行くこともありました。
余分なお金のない休日は、表参道を歩いて明治神宮参拝が
お決まりの散歩コース。ポケットにお賽銭だけ入れて。
 
夜は静かで治安もよく、芸能人も多く見かけ、
あるお店で隣が小田和正さんだったということもありました。
 
唯一の贅沢は週末にKINOKUNIYAに花を買いに行くこと…。
大事にし過ぎて夏は花瓶ごと冷蔵庫に入れて出かけることもありました。
 
とても貧しかったのに、愉快な生活でした。
ここでの6年間は最高の時間だったと思います。
 
「作家は青山界隈を下駄、ジーンズ、Tシャツで闊歩する」という
私の作家イメージも実現しました。
これは友禅染を始めたすぐから想像した姿です。
 
   
 
 

東京友禅学院では年に一度、日本橋高島屋で作品展が開催されます。
(2014年現在43回)
 
老舗のデパート本店で古くから開催されているということは、
本当に稀なことで学院の 信用度も高いということです。
滅多なことでは老舗デパートには出入りができません。
高島屋のタグがついて保証となるのですから。
 
そこで初めての出展で帯が売れるという嬉しいことがありました。
とても未熟な技術でしたが、柄や色づかいは今でも私の好みです。
縮緬地の六通柄名古屋帯、タイトル「唐草尽くし」でした。
 
作品は工業製品と違い同じものが創れないため、
たった一人のかたとの出会いとなります。
世界にたった一つ、その時の自分の技術と感性を形にしたもの。
それが私の分身となって、お客さまのところへ旅立つのだと思いました。
お客さまに永く可愛がって頂くために、最高のものをお届けしたい気持ちは
あの頃からずっと変わることがありません。
 
高島屋展ではデパートの信用がつきますが、
今後は私自身の名前で制作販売してまいりますので、
個人であっても信頼されるものづくりを丁寧に行っていきたいと思っております。
 
制作工程も長く手のかかったものは制作者としても、とても愛着が湧くものです。
それをお求め戴き、手元に置いてくださるということは私の作品がお嫁入りするよう な
気持ちになります。
感謝の想いを届けるという作品の仕上がりを目指したいと思っております。
 

   
 
 
一人で殆どの工程を行えるということは面白くもあり、大変なことでもあります。
納得のいく作品がどれだけ一生のうちに出来るか分かりません。
納得がいくようであれば長く続けていなかったかもしれません。
 
下絵も簡単に描けないこともありますが、日本には古くから残っている図柄があります。
それらを組み合わせることもできます。
 
オリジナルで描こうとするといくつもの線を描いて、
やっと納得のいく一本の線に辿り着くことができます。
 
在学中に先生から
「たくさん線を描くことでたった一つの線に巡り合う、だから線をたくさん描きなさい。」
ということを教わりました。
 
たった一つの線、それは小さな喜びでもあり、一つの作品が出来るとそれは大きな喜びに繋がります。
色も一色ずつ挿したい色を創ります。同じ色が創れることは滅多にありません。
その瞬間、その作品が一期一会でもあります。

ただ、一人でやれることは自分をそのまま表現することにもなると思います。
少なからず作家自身が隠したくても隠せない内面さえも伝わる人には伝わってしまうかもしれません。
私はそれで良し、それが良いのだと思っています。

因って、心の内まで露になっても恥ずかしくないような人間形成、
作品創りに取り組む姿勢を作品に具現化してみたいと思っております。
 

   
 
 
何事も共通していることがあると思います。
私の中では、「一つに言えることは全てに通じる。全てに言えることは一つに通じる。」
 
全く異なることをやったり、観たり、聞いたりしていても、何かしら共通するものがあり、
それに気付くということ。
 
異業種であっても共通する何か、仕事でもスポーツでも美術でも極めれば芸術に成り得る?
そんな想いで日々技術を磨き、感性を豊かにし、丁寧に仕事をすることを意識しています。
 
日常にあって、「これはこうしたらどうかな?。」を実践したものがワンピース制作になりました。
 
着物と同じ白生地の反物から訪問着のように模様が繋がるように染色・加工しています。
 
友禅染の技法を使って日常生活に取り入れるための提案です。
着物は反物を直線でパーツごとに裁断した平面なものを、
着る時に身体の曲線に沿わせる合理的なもので、洗う時は元の反物に戻すことができます。
 
洋服は立体裁断ですので元の反物に戻すことはできませんが、
普段着物をお召にならないかたにも愉しんで戴けると思いました。
 
日常的に着用できることで、より愛しさが増すのではないかと思っています。
 
絹の光沢としなやかさ、光の当たる角度で地模様の織りと色が一層美しさが際立ちます。
実際にご覧になってお確かめくださるとよくお解りになると思います。
着ているととても贅沢な気分になれるものです。
 
   
 
 
天の虫と書いて「蚕」
 
そのままですが、天から授かった貴重な虫です。
   
桑の葉をエサとすることはご存じのかたも多いと思いますが、
桑の葉に農薬がかかったものを食べると蚕は死んでしまいます。
  
その蚕から吐き出される糸で繭をつくり、その繭が絹糸になります。
天然の繊維であり絹糸の成分は人肌に近い蛋白質を多く含みます。
 
農薬なしのエサで生育された蚕の繭とあらば、人の肌にも優しいことは想像できます。
   
友禅染の作業工程において、蒸しは欠かせない工程の一つで、
反物の蛋白質が染料を定着させ、色留めの助剤は酢でも代用できます。
出来るだけ肌や環境に優しいものを使って作業もこだわっていきたいと思っております。
 
皇室でも美智子妃殿下がご養蚕を担われていらっしゃいます。
熊本では養蚕農家が数件しか残っていませんが、いつか地元の絹を使い、
地元の水を使って、絹を染めたいと密かに願っています。
 
   
 
 
私が初めて伝統文化に触れたのは生け花でした。
「我が家をそれぞれの流派で飾りましょう」と、祖母が言い出し、
祖母、母、私の3人は習った流派が異なります。
私は小学校2年から同卒業まで、生け花小原流のお稽古に通いました。
 
それぞれの特徴や面白さもあって、現実となれば華やかな家となったでしょうが、
祖母も母も放棄してしまい、3つの流派で家を飾るのは実現せずに終わりました。
 
銀行OL時代に茶花の侘び寂びの美しさに魅かれ、生け花洗心雲林派を1年指導受けました。
 
茶道裏千家も花嫁修業としてお稽古に通いました。
茶道は結婚後しばらく続けていましたが、元夫のその当時のお給料では月々の月謝にも困り、
辞めてしまいました。
 
和菓子に魅かれて茶道を始めたかたもいらっしゃると思いますが、
和のお稽古事は様々なことに気付きを得るでしょう。
所作だけでなく、茶室の設え、季節の器などの取り合わせ、軸の言葉、花入れ、
香、相手への配慮など、学ぶものに限りがないと思いました。
 
数年お稽古しただけでは何が身に付いたのか恥ずかしいものです。
いつかはお稽古再開したいと思います。
 
和のお稽古は「道」とつくように、精神面の学びが多いと思います。
最初は所作を覚えるだけで精一杯ですが、
日本の美意識や精神、生活していく上での大事なエッセンスが
詰まっていることに気づかれるでしょう。
また、習い事(道)は日々の生活に取り入れて、学びが活きるように思えます。
 
伝統文化は着物とともにあります。
文化は時代とともに変化もします。
 
私が洋装への転用を試みるのは、伝統を崩さず護っておられるかたがたが
いらっしゃるので私は安心してそれる(傾く)ことができます。
 
国産の絹を使い、伝統的な技法で染める、
これは私が頑なに守っていきたい基本姿勢にしたいと思います。
 
   
     
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